・慶長8年に津山藩領になると藩主である森忠政により出雲街道の整備が行われ、当地には宿場町となる土居宿が設けられています。
土居宿は美作国と播磨国との国境に近かった事から重要視され、宿場内に関所が設けらえ、宿場の両端には東惣門と西惣門が設置、人や荷物の出入りが厳重に管理されました。このような構造を持つ宿場町は全国的に見ても大変珍しい事例とされます。
その後、元禄10年に天領、延享2年に三日月藩預かり、寛政6年に龍野藩領、明治元年に鶴田藩領となり、明治2年の関所廃止令に伴い関所門だった東惣門と西惣門は取り壊されています。
土居宿が開宿した当初の本陣は妹尾家が担い、文政年間の土居宿本陣には妹尾六左衛門の名が見られます。妹尾家は平安時代後期に備前、備中、備後の三国を治めた妹尾太郎兼康の後裔とも云われています。
一説には兼康は平家に仕え、壇ノ浦合戦の際には三種の神器と共に海中に身を投じた安徳天皇を助けようとしたものの、それが叶わず、何とか八咫鏡だけは拾い上げる事が出来たそうです。
戦線を離脱し兼康は密かに八咫鏡を持ち帰ったとも、高仁親王の時、幕府による没収から免れる為、妹尾家が持ち帰って当地に埋めたとも云われています。
その後、本陣を引き継いだ安東家は英田保の地頭を担った安東千代一丸の後裔とされ、比丘尼城の城主等を歴任し長く当地を支配した土豪のような存在だったようです。
江戸時代には山外野村に屋敷を構えていたものの、寛文4年に大寺三郎兵衛が土居村に居を遷し大庄屋職を引き継いでいます。
その後は土居宿の本陣職も兼ねるようになり、文化10年12月19日には伊能忠敬の第8次測量で当地を訪れた際には宿所として利用されています。
永禄年間は113戸でしたが、文化12年の記録によると216戸と倍増し、出雲街道の宿場町の中では規模が大きかったとされ規模は約700程、本陣の他、脇本陣として亀井屋、和田屋等が担っていました。
慶応2年には岡山藩士岡元太郎、土佐藩士井原応輔、島浪間、千屋金作が出雲街道で尊皇派の同志を募る遊説中、活動資金の融資を巡り村人達とトラブルとなり、4人の命が失うという事件が発生し「四ツ塚様」と呼ばれる塚が建立されています。
西惣門から西に約200m程に設けられた土居一里塚は慶長9年に津山藩主森忠政が整備したもので、現在も街道の両側に当時の形状を見る事が出来、貴重な事から岡山県指定史跡に指定されています。
出雲街道:宿場町・再生リスト
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