・勝央町の金鶏塚遺跡は縄文時代初期の遺跡で、少なくとも縄文時代には人々が生活を営んでいた事が窺えます。
弥生時代後期の遺跡としては滝川左岸の小中遺跡や右岸で銅鐸が出土した念仏塚遺跡が知られています。
岡高塚古墳は間山から西に延びた山頂の一画に位置する前方後方墳で、全長約56m、後方部幅30m、高さ5m、前方部長さ26m、高さ3m、竪穴式石室、貴重な事から勝央町指定史跡に指定されています。
勝間田宿に境内を構えている真福寺には間山に古墳時代後期築造されたと推定される古墳から遷された家形石棺が保存されています。
奈良時代から平安時代になると勝田郡の中心として確立し平遺跡は勝田郡衙に比定され、政庁だったと推定される大型建物跡や、瓦、硯が確認されています。
「和名抄」に記されている勝田郡勝田郷の遺称地とされ、「東進記」の建仁元年五月二十九日条で成勝寺の荘園として勝田庄が見られます。
その後、那智山領となり、預所職は京都東寺の前大僧正長厳の血脈が相伝しています。
慶長8年に森忠政が18万6千5百石で入封し津山藩が立藩すると、当地は津山藩に属し、出雲街道の整備に伴い、当地は宿場町となる勝間田宿が開宿されています。
出雲街道は津山藩主の参勤交代の経路として利用された為、勝間田宿には津山藩主が利用する本陣が設けられ、下山家が本陣職を歴任しました。
勝間田宿には下山家以外にも本村家が本陣職を担い、津山藩主以外の松江藩や広瀬藩、勝山藩の藩主や宮家、勅使等の身分の高い人物が利用しています。
勝間田宿には常備伝馬2疋、人足12人で、松江藩の大名飛脚の継所も置かれました。
文化2年に編纂された「東作誌」によると勝間田宿には家数72軒、人口243人だったと記されています。
文化10年12月17日には伊能忠敬の第8次測量では庄屋の富右衛門宅と明石屋半兵衛宅が宿所として利用されています。
現在も伝統的な町屋建築が点在し、特に明治45年に建てられた勝田郡役所が異彩を放っています。
出雲街道:宿場町・再生リスト
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