美甘宿

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美甘宿:略データ
・場 所・岡山県真庭市美甘
・概 要・当地が何時頃発生したのかは判りませんが、「和名抄」田片山寺本に記された「三賀毛」が当地の事に比定され、記録的初見とも云われています。

美甘村の惣社である美甘神社の由緒によると太古は美甘郷の総鎮守として宮座山に鎮守し、御鴨神を奉斎していた事から御鴨神社と呼ばれ、孝徳天皇大化2年に郷名を「御鴨」に定められ、元明天皇和銅6年の詔により美甘郷になったと伝えられています。

「三代実録」によると貞観十七年三月二十九日条に美作国従五位下御鴨神が従五位上に昇格した事が記載されており、格式が高い神社だった事が窺えます。

平安時代後期には荘園である美甘庄が成立し、美甘、黒田、田口が属していたとされます。

承久3年に承久の乱で鎌倉幕府に敗れ捕縛された後鳥羽上皇が隠岐の島に流された際、美甘の地も通過したとされます。

室町時代には三浦氏が支配していたようで、文政元年頃には三浦三郎兵庫が当地を知行し、矢部定時より借銭140貫文の担保として「作州三鴨」4分3を入れています。

麓城が何時頃築かれたのかは判りませんが、高田城の出城とも云われ、戦国時代には高田城城主三浦貞明の次男である三浦忠近が城主だったとされます。

しかし、天文年間に尼子晴久の侵攻を受け、麓城は落城、忠近も自刃して果てています。

江戸時代に入ると津山藩に属し、正保2年には藩主森忠政が当地の地秤が行われています。慶安4年には美甘川の南にあった町屋敷を現在地に遷し、承応元年から3年かけて町割りを行っています。

出雲街道が改めて開削されると勝山宿新庄宿の中間に位置し、重要視されたものの、正式な宿場町では無く、間宿という扱いだった為、鉄問屋や木地問屋、上り下りの商人問屋の経営が行き詰まり、運搬業者への駄賃も払えなくなる程だったそうです。

そこで、美甘の中庄屋と村庄屋が勝山の豪商「塚谷屋」に交渉し、享保2年に当地に支店を出店し「塚谷屋美甘出店」と呼ばれました。又、許可が必要な正式な旅籠が無かった事から寛政4年には宿屋株が結成され、23軒が認められています。

寛文6年には津山藩が御茶屋、安永4年には松江藩が本陣を設置し、宝暦11年の巡見使案内帳によると家数146軒、人口591人、宿場長さ2町、約40軒程建ち並んでいたと記され、人馬は15人、8疋と次第に宿場町として発展したようです。

又、出雲街道は中海や宍道湖で採れた鰻を瀬戸内海側に運んだ事から「うなぎ道」とも呼ばれ、現在も美甘宿の水路沿いには鰻の運搬業者が宿泊した際に一時鰻を預ける「うなぎ池」の遺構が残されています。

現在も街道沿いには良好な町屋建築が軒を連ね、宿場町らしい町並みを見る事が出来ます。

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