坪井宿

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坪井宿:略データ
・場 所・岡山県津山市坪井
・概 要・慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで宇喜多家は西軍に与した事から改易となり、代わって豊臣家を見限り東軍に転じた小早川秀家が岡山藩主となり、当地も組み込まれています。

慶長7年に秀秋は嗣子が無く死去した為、小早川家は改易となり、代わって慶長8年に森忠政が入封し津山藩を立藩、当地は津山藩領となりました。

元禄10年に4代藩主森長成が嗣子が無く死去すると末期養子として森衆利が迎え入れられたものの、江戸出府途中に伊勢では狂心した為、森家は一時断絶となっています。

元禄11年、当地域は天領となり、坪井宿には幕府の代官所が設置され、天領行政の中心的な役割を持ちました。

元禄15年には周辺15ヵ村5千石が上野安中藩の飛地となった事から代官所に代わって安中藩の出張陣屋が設けられ、飛地支配の拠点となっています。

寛永2年に安中藩主内藤政苗が挙母藩に移封になると、坪井周辺は引き続き挙母藩内藤家の飛地として認められ、出張陣屋も維持されました。

江戸寺時代の坪井周辺の大庄屋は福本家が担い当地の開発に尽力しています。

福本家は坪井上に鎮座している笠森神社周辺を支配した土豪だった家柄で、戦国時代の当主だった福本藤兵衛は蒲山城主河本肥後守に従った為、天正7年に宇喜多秀直の侵攻で亀山城が落城した際、討死しています。

福本家の名跡は甥である原田政次が継ぎ、政次の孫に当たる福本小左衛門が津山藩主森家から大庄屋に任命され、安中藩内藤家の飛地になると福本文左衛門が引き続き12ヵ村の大庄屋を命じられています。

天明年間に安藤勘兵衛が挙母藩から大庄屋に任ぜられ、天保8年には安藤善右衛門が挙母藩の事務総掛を勤めています。

安藤家は元々中国地方の守護大名として大きな勢力を築いた大内義隆の家臣だった家柄ですが、大内家が没落すると後裔は帰農して香々美庄、河本村に遷り住み、寛文3年に安藤太郎兵衛が当地に土着しています。

挙母藩では出張陣屋に群奉行等8名が派遣され、当地の実力者2名を大庄屋に任命し飛地を統治しています。

明和3年頃に今まで松江藩の脇本陣職を担っていた新家家が本陣職を命じられ苗字帯刀が認められています。

新家は屋号として「菊屋」を掲げる当地の実力者で、新家源蔵の時に松江藩主松平出羽守から坪井宿の脇本陣職を任ぜられ、松江藩の御用達御定宿として年給金百余両を賜り、新家利右衛門の代に本陣となり金子の他、千足を賜っています。

出雲街道は備中新見藩、美作勝山藩、出雲松江藩、出雲広瀬藩が参勤交代の経路となった為、坪井宿では藩主達に休憩地として利用されています。

当時は七森川から引いた水路が街道の中央を流れており、水路を境に南北に町が分かれ、それぞれ二間幅の道を取り、多くの町屋建築が軒を連ねていたそうです。

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