津山宿

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津山宿:略データ
・場 所・岡山県津山市
・概 要・津山盆地は早くから人々の生活が垣間見える所で、沼遺跡からは複数の掘立柱建物や竪穴住居、長方形竪穴遺構、土坑等が確認され、弥生土器、石器、鉄器、硝子小玉等が発掘されています。

古墳時代に入ると中心的な役割を持つようになったと思われ、津山盆地最大の前方後円墳である二宮美和山1号墳(胴塚)が築造されています。

上記の1号墳(胴塚)を含む2号墳(蛇塚)、3号墳(耳塚)、6号墳の4基で構成されている美和山古墳群は大変貴重な事から国指定史跡に指定されています。

和銅6年に備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、大庭郡、真島郡の6郡を割いて美作国が立国しています。

貞観5年に苫田郡を東西に分けて苫東郡、苫西郡が立郡すると、美作国の国府は苫東郡に位置し、隣地には美作総社宮が鎮座、国分寺と国分尼寺は勝田郡に置かれていました。

延喜式では大和国と出雲国を結ぶ官道があった事が記され、国司が中央から赴任する道として当地も重要視されていた事が窺えます。

鎌倉時代に入ると梶原景時と和田義盛の幕府の中でも有力御家人として知られた両名が美作国の守護職を担いましたが、北条家との確執から没落を余儀なくされ、その後は幕府執権北条家の支配下に入っています。

美作国の守護所は院庄に設けられたものの、鎌倉幕府が滅亡すると美作国支配が流動化し、南北朝時代から戦国時代までは山名氏、赤松氏、尼子氏、浦上氏、毛利氏、宇喜多氏等が支配権を巡り、戦を繰り返しています。

豊臣政権下では五大老に任ぜられた宇喜多秀家領となりましたが、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いの結果、秀家は西軍に与した為改易となり、津山の地は岡山藩主となった小早川秀秋の支配下に入りました。

しかし、秀秋は慶長7年に嗣子が無く死去した為に改易となり、代わって慶長8年に森忠政が18万6千5百石で当地に入封し地名を鶴山から津山に改め津山藩を立藩しています。

慶長9年に津山城の築城と城下町が町割りされ元和2年に竣工しています。「森家先代実録」によると「戸川町・林田町も有り、毎年朔望ニハ国中の人民群衆ヲなし、戸川の市とて売買ヲなす」と記されています。

吉井川沿いに町割りされた林田町は中世の林田郷の中心地だった所で、古くから出雲街道が通り、市が開かれる在郷町でもありました。

戸川町も吉井川沿いにある町で、中世は出雲街道の宿場町である戸川宿に当たり天正8年には宇喜多勢が本陣を置き毛利方の医王山城を攻めています。

津山城下では林田町と戸川町一帯が出雲街道の宿場町で、商家や職人達が集められ中核を成しました。

当地は津山往来、片上往来、倉敷往来、倉吉往来、因幡往来が交差する交通の要衝で多くの人々や荷物が行き交いました。又、吉井川舟運の拠点として物資の集積地でもあり美作地方の経済的な中心地として大いに賑わいました。

現在も出雲街道沿いには江戸時代に形成された町割りに伝統的な町屋建築が建ち並び良好な町並みが残されて事から津山市橋本町、林田町、勝間田町、中之町、西新町及び東新町の一部、面積約8.1haが名称「津山市城東伝統的建造物群保存地区」に選定されています。

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