吉備津彦神社

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創建年不詳
祭  神大吉備津彦命
格  式備前国一宮・旧国幣小社・別表神社
文化財太刀(銘:井上真改、附:糸巻太刀拵、刃長69.7cm、反り1.8cm、池田綱政奉納、国指定重要文化財)
本殿(元禄10年、三間社流造、桧皮葺、桁行3間、梁間2間、岡山県指定文化財)
紙本淡彩神事絵巻(文明年間、御田植祭の様子を記した絵巻、岡山県指定文化財)
御田植祭(毎年8月2〜3日に奉納、岡山県指定無形民俗文化財)
安神社社殿(寛文12年、一間社流造、桧皮葺、桁行1間、梁間1間、岡山市指定文化財)
随神門(元禄10年、切妻、本瓦葺、三間一戸、八脚単層門、豊磐窓命、櫛磐窓命安置、市指定)
中門(元禄10年、切妻、桧皮葺、一間一戸、岡山市指定文化財)
石造大燈籠(安政6年、高さ11.5m.、笠石8畳、奉納者銘1670名、岡山市指定文化財)
流鏑馬神事(毎年10月第3土〜日曜に奉納、岡山市指定無形民俗文化財)

神  事例祭:10月第3土〜日曜・御田植祭:8月2〜3日・流鏑馬神事:10月第3土〜日曜
場  所岡山県岡山市北区一宮
備  考吉備津彦神社境内背後の吉備の中山(標高:175m)の山中には奇岩怪石が点在している事から古代から信仰の対象になっていた霊山でした。崇神天皇の御代(紀元前97年から紀元前30年)に四道将軍の1人で、西道に派遣されたという吉備津彦命(大吉備津彦命:第7代孝霊天皇皇子)は中山の神に吉備国平定の祈願を行い見事念願成就した事から、神意を感じ麓に居館を設けると屋敷内に社殿を造営し吉備津彦神社が創建されました。崇神天皇60年(紀元前38年)に吉備津彦命が死去すると、改めて御霊が祀られるようになっています(本社とされる吉備津神社から分霊が勧請されたとも)。神仏習合し境内には別当寺院である神宮寺や法華堂などが設けられ、末社は51社に及んだとされます。平安時代に成立した延喜式神名帳には記載されていないものの、藤原純友の乱で備前国一宮だった安仁神社が純友方に与した事から一宮を剥奪され、以後、吉備津彦神社が備前国一宮になったとされます(本社とされる吉備津神社が朝廷方に与し、戦勝祈願が行われ見事勝利した事が起因するとも云われています)。戦国時代には領主である松田元成と対立、その兵火により社殿が焼失し衰微しましたが、その後に領主となった宇喜多直家により再興され、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)も備中高松城攻めの際には戦勝祈願を行なっています。江戸時代に入ると岡山藩(藩庁:岡山城)主池田家の崇敬社として庇護され、社領(300石)の寄進や社殿の造営、営繕工事が繰り返され、特に池田利隆は子宝祈願を行い、見事念願成就すると子宝神社を創建しています。
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